自分という花を育てるところ

自分に集中して生きてこ。30歳からの自分と世界の見つめ方

言葉に足を引っ張られない生き方

 

お久しぶりのブログです!更新のない間も時々アクセスがあり、嬉しい限りです。覗きに来てくださりありがとうございます!

またぼちぼち、マイペースな考察発表ブログを綴っていきます。どうぞよろしくお願いします🐰🌿

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Twitterの相互フォローの方とやり取りしていて思い出したことが。

言葉って、良くも悪くも人の思考を凝り固まらせるもので、注意しなくては!と思いまして。

 

最近で言うと、時々目にする「沼らせる」という言葉。なんだか人の影の部分を垣間見る様で気持ち悪く感じます。「沼らせる」、どう感じますか。

私にとっては、「沼る」のは感覚的に理解できるのだけれど、「沼らせる」って他人を縛りつけるような下品な発想だな、って🦊

 

他人を縛りつけようとする人に寄っていく人間なんて、それなりの人間なのに。それに、人は自由にさせた方が結局自発的に戻ってきたり好かれたりするのに。

「沼らせよう」と人を縛り付けようとする発想の方は、それ相応の人を寄せ付けちゃうのでしょう。。南無。。

 

それから、「溺愛」という言葉も…(溺愛婚、って言葉は今もあります?)理解はできるし、実は一時期憧れていたものでもありました🦊‼︎

でも、それらの言葉や概念は、人それぞれの愛し方や愛情表現を型にはめてしまう可能性のある、危うい言葉だと思うのです。

当然、恋愛関係の中では自分にとって嬉しい事は「こうしてくれると嬉しい」「こんなふうに扱って貰えると安心する」と言った言葉で、自分の扱い方を伝えます。相手の理解も深めながら。

しかしながら、そんなコミュニケーションや愛情表現の積み重ねもすっ飛ばし、

「溺愛」「溺愛婚」といった憧れに頑なになって彼や旦那さんを縛り付け、「〇〇してくれていないから愛されていない」「〇〇できない彼はパートナーに相応しくない」と判断したり、彼らの愛情表現を否定したりするのはとても愚かです。辛口ですが、過去の私自身にも言っていることもあり許してくださいな。

例えるなら、せっかく良い素材で出来た靴が、まだ脚に馴染まないからと即捨てるほどの勿体無さです。(…例え合ってるのかな?靴好きなもんで…いや知らん)

 

また昔の話ですが、私が学生の頃「でき女」って言葉を度々耳にして。

「気の利く賢い出来た女性」という意味で褒め言葉として使われていたのですが、とても便利な言葉ですよね。人は言葉で簡単に操られちゃいます。

本来抜けている性格の私でさえも「でき女」じゃないといけないのかな…と自信のなさも相まって、できる人にならなくちゃ!と人に気を遣いすぎたり、自分では出来もしない事を一生懸命こなそうとしていました。そして自分の良さも見失ってしまっていました。どんまい、過去の私🦊

 

本当に人って単純!簡単に言葉に釣られて、思考も言動も操れてしまいますね。

 

まぁ、私自身、過去に操られ振り回されて今があります。だからこそ逆に操ろうとする人の意図も感じとる様になりました。

あらゆるSNSは、多くのビジネスの入り口として使われます。人の繊細な部分を刺激する言葉や写真を巧みに使って。広告も然り。(ビジネス自体を悪く言っているのではなく、ビジネスはそういう側面もありますよね)

 

そして、例え惹かれる情報であったとしても、自分自身の中に少しでも違和感が残るのなら、それは情報にすらならないゴミの様なものです。自分の中に情報に対する判断材料が無いなら、それは時としてして毒になります。自分の中にゴミを溜めて、苦しんでしまう。

 

そのため、言葉に脚を引っ張られない。情報に振り回されない。そんな意識が大切です。

他人の言葉に即反応する様な頭でっかちな習慣は、時に馬鹿な結果を生むもので。

それよりもっと大切なのは、日々試行錯誤しながら物事を見極める意識を持ち、自分の感覚を育てることが大切なんだろうな。自分の弱さや憧れを気軽にくすぐる言葉に気をつけたいですね🦊

 

それでは、貴重なお時間を使って読んでくださりありがとうございました🐾

 

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